第3章 中山家の美人当主
工藤達央は何ひとつ弁解せず、踵を返してドアを押し開け、そのまま出ていった。
有村菜津美は去っていく背中を見送りながら、なぜだか胸の奥がざわついた。得体の知れない不安――そして、ほんの少しの寂しさ。
離婚という点だけを見れば、達央は間違っていない。
ただ、彼はあまりにも普通だった。普通の人間として、普通の暮らしを送るべき人。
けれど彼女が求めるのは、もっと高く、もっと広い舞台だ。
二人は、いずれ離れていく運命だったのだろう。
有村母は玄関を睨みつけ、信じられないとでも言いたげに声を荒らげた。
「どうしてあの人を逃がすの!?」
「このクソ野郎、今井さんに手を出したうえに、私にまで殴りかかろうとしたのよ! 刑務所にぶち込んで、一生出すな!」
「いい加減にして!」
菜津美は苛立ちを隠さず言い返す。
「どうして手を出したか、分かってるでしょ。あんたが玉を奪おうとしたからよ! なんでそんなことするの!」
有村母は目を吊り上げたまま、悪びれもしない。
「三年もタダ飯食わせたんだから、利息を取って何が悪いの!?」
「殴ったのが悪いのよ。私は必ず代償を払わせる!」
菜津美は深く息を吐いた。
「……もういい。まず今井さんを病院へ連れていって!」
工藤達央はマンションの下へ出ると、胸の奥にぽっかり穴が空いたようだった。
有村家に婿入りしたのは、有村爺さんに恩があったこと、そして自分の行動を隠すための身分が必要だったからだ。
三年間、菜津美とは礼儀を守って接してきたが、夫婦らしい関係にはならなかった。
それでも、できる限り彼女を支えた。
高熱が続けば徹夜で看病し、生理の不調には食事療法で整えた。
三年だ。犬だって情が移る。
それなのに菜津美は、あまりにもあっさり切り捨てた。過去など最初からなかったみたいに。
権力と金――それほど大事なのか。
彼女の野心は知っていた。
だから表立って手を貸さず、裏で黒い仮面をつけ、天龍グループを立ち上げ、数々の障害を取り除いてやった。
そうでなければ、たった三年で、か弱い女がここまで会社を伸ばせるはずがない。
十分に稼いだら、仕事を離れ、家庭に戻る。
そう信じていた。
――結果は、離婚を突きつけられ、有村家から追い出された。
滑稽だ。
スマホが鳴った。
達央は通話を取る。声は低く、覇気がない。
「……誰だ」
「工藤さん、富江商会の森田裕美です。以前、診ていただいたのを覚えておいででしょうか。あなたが手を下さらなければ、私はとっくに死んでいました」
「工藤さんが必要とされる希少薬材も、ほとんど揃えました。特に珍しいものはまだですが、必ず探し出します」
「それと、先日海外のオークションで『アストラル・グロウ』という宝飾のネックレスを手に入れまして……奥様にお似合いかと。工藤さん、今お時間は――」
「気遣いはありがたい」
達央は淡々と切った。
「だが宝飾は受け取れない。何もしていないのに、こんな高価なものをもらうわけにはいかない。気にするな」
「……え、ええ」
森田裕美の声が揺れる。
その直後、マンションの入口に高級車が三台、滑り込むように停まった。
先頭の車から降りてきたのは、赤いドレスを纏った絶世の美女。白い肌、妖艶な体つき。息を呑むほどの美貌だった。
背後には屈強なボディーガードが八名。
美女は早足で達央へ近づき、深々と頭を下げる。
「工藤さん……どうか、妹を助けてください!」
「誰だ?」
達央は訝しげに目を細めた。
「中山紗奈です。森田会長にご紹介いただきました。どうか、妹を……!」
必死の声だった。
「分かった」
達央は淡く頷く。
中山紗奈――江北の中山グループ社長。
十八歳で経営に関わり、二十一歳で実権を握り、四年で会社の規模を三倍にした商界の女王。
有村菜津美の知名度など、彼女の前では星明かりのようなものだ。
電話口の森田裕美は、中山紗奈が到着したと察し、慌てて言った。
「工藤さん、事前にお伝えできず申し訳ありません。改めて私がご挨拶に――」
「いい」
達央は短く返し、通話を切った。
「工藤さん、急を要します。すぐ出発を」
紗奈は自ら車のドアを開け、礼を示す。
達央が乗り込むと、車列は江北第一病院へ向けて疾走した。
後部座席で目を閉じ――そのとき気づく。
腕の経脈から全身へ、じわじわと熱が広がっていく。
意識を集中すると、心臓が跳ねた。
三年前に壊されたはずの経脈が、ゆっくりと元に戻りつつあった。それどころか、以前よりも力が研ぎ澄まされていく。
腕には、龍の鱗を思わせる紋様が淡く浮かび上がった。
意識の奥底で、翼を広げた青い龍が天を揺るがすように吠える幻影が見えた。
達央は目を開き、胸の奥が熱くなるのを感じた。
まだ病院へ着く前、運転席の護衛が言う。
「お嬢様、後ろに尾けてくる連中がいます」
紗奈がバックミラー越しに見ると、七、八人のチンピラがバイクで追ってきていた。鉄パイプやバットが見える。
「……死にたいの?」
紗奈の瞳に殺気が走る。
「今この時に中山家へ喧嘩を売るなんて。妹の治療を邪魔するなら、骨まで砕いて灰にする」
達央は後方を一瞥し、ふっと冷たく笑った。
「中山さん、路肩に寄せて止めてくれ。あいつらは俺を狙ってる」
紗奈は一瞬驚いたが、頷いて護衛に命じた。
達央が車を降りると、紗奈も続く。
バイクの群れが車列を囲み、男たちが武器を手に降りてくる。
先頭の若い男がバットを担ぎ、達央へ近づいた。
「役立たず。姉貴と離婚にあっさり同意したと思ったら、もう次の寄生先かよ」
「またヒモか? 役立たずは役立たずだな!」
「今日は姉貴と今井さんの代わりに、俺がしっかり躾けてやる!」
紗奈が冷たく言う。
「工藤さん、危険です。こちらで――」
「いい。俺がやる」
達央の声は低い。
相手は菜津美の弟、有村雄也だった。
有村家が成り上がってからは遊び歩き、尻拭いは姉に押しつける。
これまでは義弟として我慢していた。だが――もう必要ない。
雄也がバットを振り上げ突っ込む。
達央は一歩踏み込み、有村雄也の襟首を掴んだ。
そして――持ち上げた。文字通り、宙へ。
「躾のなってないガキだ」
「母親も姉も放置するなら、俺が代わりに叩き直してやる」
